秋田県潟上市「佐藤食品」は、80余年の老舗佃煮屋です。

秋田県潟上市「佐藤食品」は、創業以来、80余年の秋田佃煮の老舗店です。頑固職人達が生み出すこだわりの佃煮。

秋田県潟上市「佐藤食品」は、創業以来、80余年の老舗佃煮屋です。頑固職人達が生み出すこだわりのつくだ煮。
秋田県潟上市昭和大久保字片田千刈田26
018-877-2054

潟想い(むかし語り)

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潟想い(むかし語り)

八郎潟の思い出安田スズヱさん

 


安田スズヱさん(昭和4年11月11日生まれ)
仕事:漁業 兼 ガンガン部隊(魚の仲買人)(現在は引退)
年齢:81歳(当時)
お話を伺った日:平成23年1月27日  



 
 安田スズヱさん(81歳)は、漁師である旦那さんと一緒に漁をしながら、捕った魚をブリキの箱に入れて売り歩く「ガンガン部隊」をしていました。魚はすべて売れ残ることなく飛ぶように売れていき、それは面白い仕事だったそうです。
安田スズヱさんからは、次のようなお話を伺いました。 
 
 
 
 

~子どもの頃~

 私は7人兄弟の2番目だから、小学4年生から子守りをして、小さい弟や妹をおぶって学校に行っていた。昔は他にも弟や妹をおぶって学校に来ている子どもはたくさんいた。弟や妹たちが騒ぎ出せば、先生からは「廊下さ行け」と言われて、廊下に行ってもうるさければ「体操場さ行け」と言われて、そうして体操場に行けば子守りをしている他の子どもがいっぱい居て、まるで保育園のようになっていた。おにぎりを子どもが持ちやすいように細長くして、塩とごまをつけたものを、陶器に入れて風呂敷に包んで持っていき、弟や妹がお腹がすいたと騒いだらおやつ代わりに与えていた。 

~一睡もせずに、一晩中船を走行~

 

旦那さん(写真左)の漁風景

漁師の旦那のところに嫁に来た。旦那は専業漁師をしていて、私も船に乗って漁に出ることもあった。普段は、旦那と旦那の弟が二人で漁に出ていたけれど、9月いっぱいは旦那の弟が珊瑚をとりに行っていたので私が代わりに漁に出ていた。
 2艘の船で網を引っ張るので、1艘には旦那が乗って、もう1艘に私が1人で乗って船を走行させていた。夜ご飯を食べた後、真っ暗になってから出発した。まずは、近くの排水機場に船を寄せて、網を船にくくりつけて、動力を使って2艘揃って船を沖に出していった。2艘の船同士は離れないようにロープでつないで、二人で息を合わせ、速度を合わせながら走行していった。動力が回る速さも、旦那の船と同じになるように調節していた。
 一睡もせずに一晩中走行して、朝方に帰ってきていた。途中で一回網を上げる時は真っ暗なので、旦那が光で合図をしてから揃って網を上げ始めた。手で網を引き上げて、それぞれの船に上げていくけれど、そんなに重いものではなかった。旦那からは「まくれるなよ(転覆するなよ)」と言われていた。そうして網に入っていた魚を船に出したら、また網を潟に入れて朝まで走行した。
 佃煮になるチカ(ワカサギ)は、昭和の佃煮屋がとりに来てくれた。私の旦那は漁の勘が良かったから、佃煮屋から「なんとしておめがたいっぱい入るんだ(どうしてお前たちはいっぱい魚が捕れるんだ)」と言われていた。 

~監視船からは必死で逃げた~

 どっぴき(動力で網を引く漁)をやっている最中に監視船が来た時には、心臓がドキドキしながら逃げた。(※当時、動力で網を引く漁は禁止されていた)どっぴきをしていることが見つかると、網を没収されることになっていて、没収された人は何人もいた。ドキドキしながら、急いで網を船にあげて、馬力を最大に上げて、必死で川に逃げ込んだ。監視船はすごく速かったけれど、大きくて川には入って来れないので、川に逃げ込んでしまえば大丈夫だった。 

~魚を捕れば急いで駅に向かった日々~

 ガンガン部隊を始めたのは、昭和32~33年頃で、29歳頃に始めたと思う。やめたのは、昭和42年頃だったように思う。(※ガンガン部隊とは、八郎潟の魚をガンガン(ブリキ缶)に入れて売り歩く仲買人)
 10月になれば旦那がシラウオを捕ってきて、それを私が売り歩いていた。旦那は朝4時頃に漁に出発して、朝6時頃まで網を引っ張ってシラウオを捕っていた。帆で船を出すときは、風がなければだめだから戻ってくることもあった。そのうち、帆だけではだめなので動力が流行るようになった。
私は浜で待っていて、船が戻ってくれば木の箱(佃煮が入っていた箱)に捕れたシラウオをつめていった。チカなどが混ざっていればだめなので、ほかして(よけて)シラウオだけをつめた。つめ終わったら、箱をガンガンに入れて、朝7時に出発する汽車に間に合うように、急いで二田駅に向かった。時間があるときは自転車で行ったけれど、時間がなければバイクに乗せてもらって行った。バイクの荷台にガンガンを3つも積んで、その上に私が座って走行した。当時は舗装もされていない砂利道なので、バイクが上がったり下がったりするのに合わせて自分もバランスをとらなければいけなかった。腰には、おにぎりを結びつけて行った。
 二田駅に着くと、たいていはもう汽車が待っていた。先にホームにいた人たちや天王の方からすでに乗車してデッキにいる人たちが、私のガンガンを上げてデッキに入れてくれた。駅の人は、私が急いでやって来るのが見えたらいつも発車しないで待ってくれたので、汽車に乗り遅れたことはなかった。そのお礼に駅の人にも魚をあげていた。
 いつも乗る汽車は学生がたくさん乗っている汽車で、私は車両の中には入らずにデッキに乗っていた。当時はあまり感じなかったけれど、今思えば生臭かっただろうなと思う。シラウオはあまり生臭くないけれど、チカは特殊な匂いがしていた。 

~小さな体で重いガンガンを運ぶ~

安田さんが使用していたガンガン

 いつも7時半頃に土崎駅で降りて魚問屋に向かった。魚問屋は駅から割と遠かった。1つのガンガンには、2㎏のシラウオが入った箱が6枚入っている。3つのガンガンがあれば魚だけで合計36㎏もあり、それにガンガンや箱の重さを加えるとかなり重いものだった。3つのガンガンを一度には背負えないので、1つは駅の待合室に置いておき、2つを背負って問屋に行って、また戻ってきてもう1つを持っていった。ガンガンが4つあるときは、問屋が土崎駅まで迎えに来てくれた。私は小さい体をしているから、「安田さん、その体でなんとして(どうやって)運ぶんだ」とよく言われていた。 

~本当に面白かったガンガン部隊~

 問屋に行けば、魚を仕入れに来た人たちが早く欲しくて待っていて、「あね(姉)ちゃ、来たー!」「あねちゃ、俺のとこさ1枚くれ」「俺ちゃあ2枚」とどんどん声がかかって売れていった。私が持っていくシラウオは、自分の家で捕って持ってきているので鮮度が良いと評判だった。持っていったシラウオは、毎日売れ残ることなく全量を引き取ってもらえた。本当に面白かった。
 それに、ガンガン部隊の中には、例えばフナであれば10㎏の箱に9.4㎏しか入れない人もいたけれど、私は目方(重量)を正直に入れていたので、「あねちゃ、お前のどれだ」と言って私の魚を選んで買ってくれた人もいた。
 他のガンガン部隊の人は、家で漁師をしている人は多くはなかったと思う。たいていのガンガン部隊は、他の家の漁師から魚を買って売りに歩いていた。夫婦でガンガン部隊をしている人もいたし、旦那が出稼ぎに行っていて奥さんがガンガン部隊をしている人もいた。
 シラウオは高かったので、普通の人が食べられる魚ではなく、料亭などで食べるものだった。食べ方は刺身か吸い物と決まっていた。当時の土崎には料亭がたくさんあった。 

~寝ずに漁をしては売り歩いた~

 旦那は寝ないで漁をしていたものだった。みんなが寝静まっている夜にシラウオを捕ってきて、ゴミを取ったり氷水で洗って箱につめ終わった頃には23時を過ぎていて、それからバイクで砂利道の中を走って土崎の問屋までシラウオを持って行った。問屋とは話がついていて、いつ行っても魚を置いておける冷蔵庫があってそこに置いてきていた。家に帰ってきた頃には、早い時にはすでに他の漁師が朝の魚を捕りに行くための準備をしていて機械の音が聞こえるので、旦那もそのまま寝ないで朝の漁に行っていた。そうして朝捕ってきた魚を、今度は私が朝の汽車に乗ってまた問屋に持って行った。旦那が夜に冷蔵庫に置いてきていたシラウオは、朝には全部売れてなくなっていた。
私は一日中汽車に乗っていたこともあった。朝に捕った魚をガンガンに入れて土崎に持っていって、家に帰ってきたらまた魚が捕れている。そうしたらまたガンガンに入れて土崎に持っていく。定期券を持っていて、一日に何回も問屋と家を行ったり来たりした。そうして夫婦で寝ないで漁をしては売り歩いていた。
 そのうち車が流行ってきたら、ガンガン部隊の人たちで共同して車に乗って問屋に行くようになり大分楽になった。みんなで車の荷台にシートをかぶって乗って行った。秋田市に市場が出来てからは、秋田市の市場に魚を持って行くようになった。旦那が車の免許を取って、自分の車で行くようになった。
 昔から魚の行商人はいただろうけれど、ガンガン部隊と呼ばれていたのは、船越駅、天王駅、二田駅から乗ってきて八郎潟の魚を運ぶ人たちだけだった。ガンガンはトタン屋に注文していた。古い人だと、今生きていれば120~130歳くらいになる人もガンガン部隊をやっていて、その人は仙北まで売りに歩いていた。

~期待外れだった地先干拓地の配分~

 旦那は漁師専門だったので、田は何も持っていなかった。干拓をする時に、漁師専門の人には2町4反歩の配分があると言われていた。当時は「2町4反歩ももらえるならば、これはいいもんだ」と思っていたけれど、いざ配分となったら、たったの7反歩しかもらえなかった。
 旦那は、平成9年まで漁を続けていた。シラウオの新しい網も買ってやる気充分だった時に、検診で引っかかり手術をしないといけなくなってしまい、漁をやめることになった。それまでは病気ひとつしたこともなかった。その後、平成19年3月に亡くなった。

~八郎太郎伝説~

 八郎太郎伝説についての話は聞いたことがなく、学校でも教わったことがなかった。漁の前に八郎太郎に祈るなどということもなかった。拝む神様は、自分の家の恵比寿様で、朝晩拝んで漁に行っていた。
12月4日の夕方には、恵比寿講という行事を行っていた。たらの芽の樹を半分に割って、割った面に「正月吉日」と墨で書き、トシナ(しめ縄)に挟め、そのトシナを、船のとも(船尾)の方につけて、酒と米と塩を供えた。 

~漁師の言い伝え~

 「お産はだめ、死人は大歓迎」というような言い伝えがあった。墓に立てるとば板を使ってアカトリ(船道具)を作った。私の一番上の子どもが産まれる時にも、旦那は顔も出さなかった。私の母親からは「(漁師の間でそういう言い伝えがあるにしても)あまりにも固すぎる」と言われていた。

~五月ブナは嫁さ食わすな~

10年以上漬けた自家製のイシャジャ塩辛

 「五月ブナは嫁さ食わすな」という言葉があって、五月のフナはそれくらい美味しかった。フナ貝焼きは味噌仕立てで食べた。チカ貝焼きも味噌仕立てで、ネギや豆腐を入れて食べた。フナは田楽にもして食べた。シラウオは、どんぶりで卵やとろろや唐辛子をかけて食べていた。イシャジャの塩辛も作ったもので、今でも10年以上つけたものが残っている。
 
NPO法人草木を守る会

名誉会員 佐藤 良枝 氏


お客様の声

数あるお客様の中より、アンケートにご協力いただいた一部のお客様の声を掲載させていただきました。


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