潟想い(むかし語り)
安田 信雄 さん(昭和5年10月29日生まれ)
年齢:80歳(当時)
住所:潟上市天王中羽立(昭和38年に、天王羽立から転居)
お話を伺った日:平成22年1月14日
潟上市天王中羽立に住む安田信雄さん(80歳)は、子どもの頃から、父親と一緒に漁業をしていました。「漁師の仕事はおもしろかった!」と話す安田さん。その一方で、「いつか魚は捕りつくされてしまうから、ずっと漁師はできない」との思いも抱いていました。
安田さんからは、次のようなお話を伺いました。
「こぶ下げてしゃ、めしは食えない!潟さ行け!」
小学3年生から親父と一緒に延縄(はえなわ)漁業を行っていた。岸に近いところで、ミミズをエサにして、グンジ(ハゼ)を捕っていた。昔は、どこの家にも馬や牛の糞をためておく堆肥場があったので、そこにミミズがたくさんいた。化学肥料がない時代なので、潟のモグ(水草)も積み上げて堆肥を作っていた。
羽立北野尋常高等小学校に通っていた。(尋常高等小学校とは、尋常小学校の課程と高等小学校の課程とを併置した学校。今の小学校と中学校が合体したような学校。)小学6年生まで通った後は、引き続き同じ校舎で高等2年生まであった。高等2年間は、ろくに行かない人も多かった。自分も高等はろくに行かなかった。
割と勉強はしていたが、貧乏なものだから、親たちに「勉強して何になる!?こぶ下げてしゃ、めしは食えない(こぶ下げる=ネクタイ下げる)。潟さ行け!」と言われた。その時代は、公務員の給料は良くなかった。親や学校の先生は、怖くて言うことを聞かなければいけない存在だった。
高等2年を卒業してから、漁師になった。
親父と二人で漁
家に船が一隻あった。天気の良い日は親父について行って、仕事のやり方が分かっていった。そのうちに、一人前になったという顔をして仕事をしていた。
8月お盆頃には、親父と二人で「ゴリ曳き漁業」をやった。ゴリ曳きは2人でやらなければならなかった。夕方に漁に出て、夜に操業して、朝に帰ってくる漁だった。盆踊りの音が聞こえる中、漁をするのは嫌なものだった。
8月~秋頃にかけて行った「ワカサギ建網漁」は夜に網を差しておいて、舟の上に泊まって、朝帰ってきた。
秋の昼間は、「ざっこ曳き」を行った。フナやいろいろな魚が網に入る。2人でやるものだけれど、1人で出来るものもある。秋は「フナ刺網」もやった。風を利用した「帆掛船」での漁もやっていた。
冬になれば、漁師は共同して「氷下網漁業」を行っていた。親方が一人いて、納屋を借りて、9~13人で漁に出ていた。期間は、氷が30~40センチに厚くなった正月前くらいから、3月始め頃までだった。
親父から給料はもらっていなかった。ただし、イサバト(仲買人)に売った魚の代金が入ってくる会計日には、何十円くらいはもらっていた。
※13歳当時(昭和18年)では、1俵25円の時代。日当300円くらいをもらえる時代だった。百姓ではない人は、秋に百姓を手伝って、一日の手間賃を、1升5合くらいもらっていた。口に入らないくらい大きなまさかり飴一つが1銭くらいだった。くじ引きも一回1銭だった。
何店かの佃煮屋と契約していた。持っていったのは、ワカサギ。八郎潟のシラウオは値段が高いので、佃煮には絶対できなかった。シラウオの佃煮はその頃は作っていなかったと思う。他には、フナやザッコ(雑魚)の甘露煮もあった。ワカサギはめざしにもした。
佃煮屋に魚を持っていくときは、魚を種類ごとにしっかりと選別しないといけなかった。ワカサギにシラウオが混ざっていれば、雑魚扱いになって、値段が落とされた。その頃は、漁師が魚を捕ったら、工場に持って行き、工場にいる10人くらいの女工が選別していた。
北海道へニシン漁
毎年、氷下網漁業が終わってから、北海道増毛町にニシン漁に行っていた。3月10日頃から5月5日頃まで行く。50日間で10万円も稼いだことがある。(米の値段が、1俵3000円の時代)ニシンが不漁の年はなかった。どんなに最低でも、50日間で4万円は稼げた。
監視船
潟で漁をするとき、エンジンで網を引っ張ることは禁止だった。干拓中の昭和40年代の話ではないかと思うが、県水産課の監視船が、一日市(八郎潟町)から来て、エンジンを使って網を引っ張っていないか見回りに来ていた。監視船は、ボートのような船でとても速かった。来たら合図をして、みんなで警戒していた。ただし、監視員はサラリーマンだから、17時前には帰っていった。
たとえ、エンジンを使って網を差している時に見つかっても、逮捕されることはなく、注意のみだった。あまりにもやりすぎると、漁具を没収される人もいた。母ちゃん(奥様)とエンジンで網を差しに行ったこともあった。100メートルくらい差したこともあった。
エンジンを使って網を引く漁は、「動力で引く」を略して「どっぴき」と呼んでいた。だいたい船2隻で網を引いていた。
いつか魚は捕りつくされる
干拓をするかしないかについて話し合っていたのは、自分の親父たちの世代で、自分はまだ若かったので、どういう話し合いが行われていたのかはよくわからない。
ただ、親父たちの世代が、干拓になぜ賛成したかと言うと、漁具の補償で現金がもらえるし、地先干拓地を与えてくれるし、仕事がない時代に干拓工事の仕事にも行けるようになる。だから賛成したのではないか。このあたりでは、反対という話を聞いたことはなかった。
もしも、自分が親父たちの世代だったとしても、賛成したと思う。ずっと漁師をやりたいとは思っていなかった。自然を相手にして商売をしていれば、必ずいつか魚は捕りつくされていなくなると思っていた。
だんだんと世の中が、エンジンを使って無理に魚を捕るようになっていくので、これでは漁師でまんま(飯)は食べられなくなるなと思っていた。
当時、周囲に自分の想いを話すことはなかったので、個々の漁師がどう考えていたかはわからない。
干拓工事開始
干拓が始まれば、漁師もほぼみんな土木工事に行った。干拓が始まる頃は、土方で日当800円だった。だんだん人がいなくなったので値が上がり、最後は1万円になった。自分の田んぼ仕事を遅らせてまで、土方に行く人もいた。
漁師をやめる
干拓が始まってから、捕れる魚が少なくなった。干拓が始まってからも、網を差しに行ったけれど、だんだんやめていた。
ある日、テレビで、エンジンで網を差しに行って逮捕された人のことがニュースになっていた。それをきっかけにして、母ちゃんが漁をやめると言って、当時の船では一人で漁はできなかったので、完全に漁師をやめることにした。
ちょうど船や網を欲しいという人がいたから、全部売ってしまった。40歳頃、昭和45年頃だったかもしれない。
干拓後、漁具補償金などをもらった。加えて、地先干拓地の田んぼ7反歩の配分があり、そんなに高くない値段で購入した。その後、別に1反歩を購入し、合計8反歩の田んぼをやっていた。最初は機械を買って農業をやっていた。漁師を辞めた後は、会社にも勤めていたので、朝早く4時頃に田んぼに行き、朝食もろくに食べずに会社に行っていた。だんだん米の値段が安くなってきて、赤字になってきたので農業もやめた。
息子は漁師をやっていない。小学1年生の時に、一度だけ船に乗せたことがあったけれど、その時に嫌がって、その後は一度も乗ってない。漁師をやれと言ったこともない。専業漁師ではとても生活できないから、ちゃんと学校に行かせたほうがいいと思っていた。
中央干拓地への入植を勧められたけど・・・
中央干拓地に入植することも勧められたが、地盤を知り尽くしていたので、農業には向いていないと思っていたから行かなかった。中央干拓地は、ヘドロがぬかるんで、棒を突き刺したら2メーターも沈んでしまうような場所だった。県外から入植した人はそういうことを知らずに入植した。自分も、土地の条件が良ければ、中央干拓地に行ったかもしれない。天王塩口から入植した人もいるが、とても難儀したようだ。トラクターが埋まったりもした。今の大潟村役場があるところは、一番地盤が良い。
ただ、暗渠(あんきょ)(※田んぼの水を排水させる地中管)を田んぼに引いて水分をとるようになって、第3次入植くらいになった頃には、少しは地盤が良くなったかもしれない。最初から暗渠を引く計画はあったようで、束ねたヨシを暗渠に使うためにかなり残していたようだ。(※パイプの穴が詰まらないように、パイプの周りをヨシで覆う)そんな計画があったなんて、全然知らなかった。このあたりは砂地で、水は自然に抜けていくので、暗渠なんて必要なく、「暗渠って何だ?」と思っていた。
漁師の仕事はおもしろかった!
漁師の仕事を振り返ってみると、若い頃はおもしろかった。なぜかと言うと、18歳や19歳の時でも、親父から金をもらわなくても、自分の小遣いが自由になったから。チカ(ワカサギ)を捕って、そのまま船で川を上って大久保の佃煮屋に持っていって、「じぇんこ(金)貸してけれ」と言うと、5円、10円と借りられた。(後で借りた分が売上げから引かれることになっていた)その頃の18歳,19歳は大人なみ。もう親父は漁をやらずに俺にまかせていた。自由になる金をもらえて、漁師はいいもんだなぁと思っていた。
羽立にいたときは、そばにいっぱい漁師がいるから、みんなで協力し合いながらやっていたのが面白いものだった。それぞれの家で網差しをやって、自分が終わったら出来ていない家に手伝いに行って、みんなで喋ったり飲んだりしながら輪ができていた。
氷の上で食べた貝焼きの味
氷下網漁業に行った時に、氷の上で食べたかやき(貝焼き)の味が今でも忘れられない。豆腐と味噌を持っていって、氷の上で火を焚いて、潟の水でワカサギを煮て食べた。干拓前は、潟の水はうめかったから、いくらでも飲んだ。
昔はイシャジャの塩辛はよく作った。今も少し作っている。保存のために、とてもしょっぱかった。わざわざ仙北の方から、イシャジャの塩辛を買いに来る人もいた。漁師にとっては、貴重な現金収入になるのでよかった。
防腐剤代わりに網を柿渋につける
網は網屋で買ってくる。今は飯田川虻川にしかないけれど、昔は船越に2軒あったので、天王の漁師はそこで買っていた。
昔は、網は綿で出来ていたので、1年そこらでだめになった。腐らないように、豆柿(正確には柿ではないかもしれないとのこと)の渋をつぶして、つゆにして、網につけていた。豆柿はあまり量がないので、コールタン(どろどろの重油)を煮つめて、田んぼに干したものも、防腐剤として網につけていた。
今の網はナイロン製なので、そういうものは必要ないし、何年ももつ。ただし、あまり日光にあててはいけない。
シラウオは、浅いところにいるので、網に重りをあまりつけずに、軽くして(浮かせて)船で引っ張って捕る。ワカサギは深いところにいるので、重りをつけて(沈ませて) 船で引っ張って捕る。今は、湖底につくだけの大きな網をいれて引っ張るので、浅いところにいるシラウオも深いところにいるワカサギも全部一気に網に入る。
船で網を引っ張ると、水の抵抗があるので、水の抵抗力が少なくなるような網の作り方がある。網の途中で、網目を荒くすると、水が抜けていって抵抗力が少なくなる。
ワカサギ建網漁で網を設置するときには、竹の棒を建てる。元々は松の木を使っていたけれど、松はあまりないので、竹を使う。松は水に強いので一番良い。重たいので、水に浮かして運んでいた。竹は軽く浮力があるので、抜けやすい。竹を差しておいたら、旗でも何でもよいので、自分の好きな目印を置いておく。今なら電飾をつけておく。
網を盗まれることはなかった。ふくべ網に入っている魚だけを盗んでいくことはあったらしい。盗まれても、魚に名前はついていないのでわからない。でも、自分の網は見れば大体わかるものなので、持っていかれることはなかった。
名誉会員 佐藤 良枝 氏
お客様の声
数あるお客様の中より、アンケートにご協力いただいた一部のお客様の声を掲載させていただきました。
メディア掲載
カクチョウ 佐藤食品が過去に取り上げられたメディアの一部をご紹介いたします。