秋田県潟上市「佐藤食品」は、80余年の老舗佃煮屋です。

秋田県潟上市「佐藤食品」は、創業以来、80余年の老舗佃煮屋です。頑固職人達が生み出すこだわりの佃煮。

秋田県潟上市「佐藤食品」は、創業以来、80余年の老舗佃煮屋です。頑固職人達が生み出すこだわりのつくだ煮。
秋田県潟上市昭和大久保字片田千刈田26
018-877-2054

想い

潟想い(むかし語り)

本ページの記事は、八郎湖の環境再生活動などをされていた佐藤良枝さんが、干拓以前の八郎潟の様子や、周辺の人々の暮らしや仕事など、幅広く八郎湖について伝えるために、昔の八郎潟を知る人々からお話を聞くプロジェクトを行っていました。当社二代目社長 故 佐藤忠悦 も、プロジェクトに協力しインタビューされたときのものです。
 


佐藤食品 二代目社長:佐藤忠悦(昭和5年5月5日生まれ)
年齢:80歳(当時)
インタビューされた日:平成23年2月21日  



 
 佐藤忠悦さん(80歳)は、潟上市昭和大久保にて佃煮屋を営んでいます。昔は、佃煮は作れば作るほど売れ、24時間工場に明かりが点いていたこともあったそうです。戦時中には、大変貴重な保存食として、全量が軍隊に納められていました。佐藤さんからは、次のようなお話を伺いました。
 
 

 

~戦時中の八郎潟~


 
中学生までは戦時中で、着ている服は軍服が定番だった。八郎潟では泳いだり、船を借りて船遊びをしていた。男はやらなかったが、女の子はシジミ貝採りをしていた。
 終戦間近の中学3年生の頃、八郎潟で友達5~6人と一緒に船遊びをしていた最中に、空襲警報が鳴り出したことがあった。八郎潟上空にアメリカの戦闘機グラマンが3機ほど飛んできて、鹿渡の沖の方に止まっていた水陸両用飛行艇が奇襲をかけられて黒い煙が上がった。三倉鼻沖にやってきた貨物列車も機関銃で射撃されて、次は自分たちが狙われると思った。岸辺に広がっていたヨシ原に隠れようと思い、岸の方に向かって一生懸命船を漕いだ。沖にいた別の船も射撃され、乗っていた人は水中に潜って無事だったが、船に穴を開けられていた。自分たちの船がちょうどヨシ原に入ったときに、自分たちも狙われて射撃され、幸い船には当たらなかったが、近くで水しぶきが上がっていた。グラマンの方を見たら、低い位置を飛んでいるので、飛行帽をかぶってメガネをかけたアメリカ兵の顔がはっきりと見えたのを覚えている。その後、グラマンは寒風山の方に向かっていって、見えなくなった。
 

~24時間工場の明かりは点いたままだった~


 佐藤食品株式会社は、父親が昭和7年に創業し、2代目が私になる。創業当時、他の佃煮屋は県内での取引を行っていたが、父親は先覚的に県外での取引を初めて行い、東京の築地市場を中心に福島や仙台などでも取引をしていた。まだ車がなかった時代、八郎潟で捕った魚は、中継ぎの船に積まれて、馬踏川を通って大久保の佃煮屋まで運ばれていた。そのため、昔は馬踏川に近い所に佃煮屋が並んでいた。また、ガンガン部隊(八郎潟の魚の仲買人)が佃煮をあちこちに売り歩くようになる前は、父親自身が秋田市や本荘の方まで自転車で売りに行っていた。
 
昔は、契約している漁師が捕った魚は全量引き取って佃煮に仕上げることになっていた。そのため、漁がある半年間くらいは、漁師が捕ってきた魚が次から次へと工場に運ばれてきて、24時間明かりが点いたままの状態だった。朝は建網網で捕った魚、昼過ぎには曳き網漁で捕った魚、夕方には一番多くの魚が運ばれてきた。夕方の魚を一晩中かけてやっと仕上げる頃にはもう朝方になっていて、また朝に捕れた魚が運ばれてきていた。
 

~軍隊にとって貴重な保存食だった佃煮~


 戦時中、佃煮は政府の許可がなければ売買できない統制品で、一般消費者に販売することはできず、全てを軍部に納めていた。その代わり、佃煮の原料となる醤油や砂糖の配給を受けていた。昔は冷蔵庫がなかったので、長く保存できる缶詰と佃煮は軍隊にとって貴重な保存食だった。佃煮組合に5トンや3トンといった生産依頼がきて、各佃煮業者の実績に合わせて生産量を配分していた。戦争が終わってからは統制解除になり、一般消費者に販売できるようになった。
 

~佃煮の作り方~


 佃煮の基本的な作り方は昔から変わっていない。醤油や砂糖で煮て、保存性を持たせるために水分を出来る限り除き、水飴で固めている。魚は50~60%位は水分なので、1㎏の魚は500グラムの佃煮にしかならない。昔は半年~1年は常温で保存できた。たれの調合の仕方は各佃煮屋で違っていて、魚を煮たたれは“元だれ”として残しておいて、それにまた砂糖や水飴を足して繰り返し使っていく。だんだんと人々の嗜好が低塩・低糖・ソフト嗜好に変わってきているので、そういった味付けもするようになっている。
 

~干拓について~


 干拓は国策として進められていたので、業者が反対したところでどうしようもないものだった。魚の宝庫をみすみす干拓してしまったという気持ちがある。干拓に際し、漁師は直接補償だったが、佃煮屋は間接補償で、補償金は漁師の10分の
1程の微々たるものだった。佃煮屋は八郎潟以外の湖からも魚を買えるからという理由で補償金が少なかったようだ。親達は、農林省まで行き補償金を増額するように陳情していた。
 昭和39年9月15日に、干陸式式典が中央干拓地で行われた時には、農林大臣やヤンセン教授(オランダの干拓専門家)等の来賓者に配るための「佃煮詰め合わせセット」を当店で三千何百セットも製造した。
 

~嗜好の変化に対応し新しい商品を生み出す~


 昔はどんな店にも佃煮は置いてあるものだった。ご飯があればすぐに手軽に食べることができる佃煮は、インスタント食品の元祖のようなものだったし、冷蔵庫がない時代に長く保存できる食品は貴重だった。ガンガン部隊が県内中に売り歩いてくれ、作れば作るほどよく売れていた。
 しかし、約20年位前からは、人々の嗜好が変化し、食余りの時代になって、佃煮の需要が減って売れなくなってきた。手軽なインスタント食品も出てきたし、ソーセージが出てきた時には、ソーセージの方が長持ちするということで佃煮業界の売上げが急激に落ちてしまった。今は需要に対して八郎潟で捕れる魚が多すぎる状態になっている。
 先日、スナック的な発想で、わかさぎの唐揚げにチョコレートを絡めた「わかチョコ」を新発売したところ、とても評判が良かった。嗜好の変化に対応して、既存の佃煮だけではなく、新しい商品を生み出していかなければならないと思っている。
 

NPO法人草木を守る会

名誉会員 佐藤 良枝 氏

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